2014年3月1日土曜日

竹田恒泰の発言について

 竹田恒泰さんのオリンピックの礼儀に関する発言ですが、皆さんはどうお感じになられたでしょうか。
 僕は正直、竹田恒泰さんご自身のプロフィールだとか発言内容などには、あまり興味が持てません。明治天皇の玄孫だろうが、新鮮なシャコだろうが、どうでもいい。
 かつまた、発言自体も「品格のある自分」を押し出しただけで、それほど独創性のあるエッジの効いた発言とも思えない。
 問題は、武田さんの発言に見られるように、僕ら日本人が「常識」や「固定観念」をどうしても捨て切れないところにあるのです。
 ゆえに、別にオリンピックにおける選手の態度でなくとも、例題は山ほどある。
 例えば、整形をしてもいいと思うか否か。
 大まかに分析すると、今の日本人の反応は二通りあると思われます。
 一つは、理屈で理解しようとする人。
「個人の自由ですから、いいんじゃないですか?」
 もう一つは、固定観念で納得する人。
「でも、整形なんてするのは品がない、と多くの日本人は思っていますよ」
 もちろんタチが悪いのは後者で、彼らは前者の「理屈」を頭では理解しつつも、心では席を譲らない「固定観念」に基づき、物事を判断します。
 僕だって少なからずそうだし、多くの皆さんがそうだと思います。
 なぜ、「理屈を頭では理解」していても、「心では常識で納得」してしまうのでしょうか
 これは実に根深い問題で、容易には解決がつきそうにありません。

 そう、多くの日本人が思っているはずなのです。
(作中わざと固定観念に囚われているような言い方をしましたが、演出です。あしからず)

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2014年2月26日水曜日

『風立ちぬ』をDVDで観たくて仕方がない今日このごろ

 僕ね、早く宮崎駿監督の『風立ちぬ』のDVDを買いたいんです。
 以前、ブログやブロマガで批評したことがあるんですけど、今はもう、そんな屁理屈はどうでもいいんです。
 重要なのは、僕が『風立ちぬ』を観て、奮い立つような生きる力を得た、ヒーローになりたくなった、猛烈に恋をしたくなった、気になる異性に告白したくなった、焦げつくように人間を愛したくなった、という事実なんです。
 どんな言い方をしても大げさになりますが、こんな大げさな表現があてはまることなんて、人生において早々ないことじゃないですか。
 だから、大事にしたいですよね、そういう気持ちは。
 僕にとって最高の映画とは、やっぱり生きる力を与えてくれるものなんですよね。べたですけどそれがベターであり、なに、他に言いようがないじゃないですか。
 正直、そんな作品は多くない。
 ましてや文学においてそれに値する作品など数えるくらいしか知りません。
 大半の本は、自分が書くときに活用するために読んできた「使い捨て」に過ぎない。
 ことにも日本の作家の作品が僕に生きる力を与えてくれたか? その問いには、残念ながらノーと答えるしかありません。
 だから僕は、Google+において、東野圭吾の本を読んで感動しただとか抜かす輩どもが鼻持ちならないんです。
 などと、話は逸れましたが、とにかく一刻も早く『風立ちぬ』のDVDを発売して欲しいものです。

 勿論、それは告白したい人がいるからです。

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2014年2月25日火曜日

『太郎取扱説明書』あとがき

 この小説は“インディーズ文庫”というレーベルから発売されたものです。
 従って、インディーズだからこそ発表できる小説を出さなければ意味がない、という観点から、形式も内容もまとめようと努めました。
 例えば、この小説の形式は「枠物語」となっております。
 「枠物語」とは別名「額縁小説」とも言われ、さまざまな短編を織り込んで一つの長編とする形式のことです。デカメロンあたりに端を発しているそうですが、現代文学だと絶えて用いられていないようです。
 しかし、私はこの形式を使うことにしました。
 なぜといって、この形式ならば、過去に公募で落選した作品を無駄にすることなく当てはめることができるからです。
 まさにインディーズだからこそできることの一つといえるでしょう。
 かつまた、小説家志望の方々をターゲットにしたこともインディーズならではの試みだと思っております。
 以前ニコ生の配信では言いましたが、これまで読者に対する小説はあっても、作者に対する小説は少なかった。
 しかし現状、読者数は減っているのに、作者数は増えております。
 ならば逆転の発想で、作者をターゲットにすることで何らかのムーブメントを起せるのではないか、と画策致しました。
 インディーズならでは、といえば、やはり現在の文壇への風刺の多さも見逃せないポイントでしょう。ことにも“恋愛小説”の章などは、かなりねっちりと文壇への風刺をこめて書いた記憶があります。
 発表して一ヶ月近くが経とうとしている今、私には達成感とはまったく別の奇妙な感慨がわいてきています。
 それはこの『太郎取扱説明書』内で用いた主題や物語たちが2014年の現実とシンクロしているということです。
 れいの大河内守氏の「ゴーストライター事件」は“恋愛小説”の章に、名古屋での殺人未遂事件は“ミステリー小説”の章に、そして、ともなりたかひろとしての現実は“SF小説”の章に、重なる部分が多く見受けられます。
 何より、この『太郎取扱説明書』全体が、2014年現在日本に何万といる小説家志望の方々全員にあてはまるのですから、そういった意味でもぜひ一読していただきたいものです。

                        2014年2月25日 ともなり たかひろ

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2014年2月24日月曜日

通り魔の心理――大野木亮太容疑者へ――

 名古屋での殺人未遂事件、犯人は30歳であるという。
 僕も今年29であるから、ほぼ同世代といっていい。
 ゆえに僕は、彼の「動機」や、「動機の現れ方」などが、よく理解できる。
 他人事ではない、という気持ちもある。
 多くの世人は、彼が通り魔をした「動機」ばかり探ろうとするが、本当に重要なことはその「動機の表れ方」なのだ。
 例えば、通り魔をすることによって世間が、
どんな理由があったにせよ、人様に迷惑をかけるなんて論外だ!
 という冷たい反応をすることは、彼でなくても、あらかじめ予測できることだ。
 そして、そうした「世間」から「冷たくあしらわれる」という反応について、納得できる部分と納得できない部分、言い換えれば、冷たくあしらわれて当然だよなという大人な考えと、こんなにツイてない僕にそんなに冷たくしないでくれという子供な考えとが、あるいは、世間は悪くない悪いのは僕だという建前と、いや、やっぱり世間が悪いのだという本音とが、交錯し、「股割き状態」になっているのだ。
 股割き状態は、つらい。
 この場合、人は足を組み直して、楽な姿勢に戻りたくなるのが当然であろう。
 ゆえに、「逮捕される」ということは、彼にとってマイナスではないゼロに戻っただけのことなのだ。

 ゼロに戻ったのだから、変な話、彼はある意味ではホッとしている可能性もあると思う。
 もう、これ以上苦しまなくて済むのだから。

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2014年2月23日日曜日

嫉妬心について――森鴎外の半生――

 古今東西、「嫉妬」が歴史を形成してきた、といっても過言ではない。
 こと文学の世界で嫉妬に人一倍敏感だったのは、かの森鴎外である。
 鴎外は、陸軍に任官してからというもの、同期の人間との猛烈な出世争いにしのぎを削ってきた。
 鴎外は当時の医学先進国たるドイツへの留学を目指していたが、成績が8番とふるわなかったため、念願の文部省給費留学生(いわゆる特待生のことだ)にはなれず、失意の底にあった。その頃、同級の者たちは次々と陸軍に入っていたのである。
 失意の鴎外を救ったのは、同級の小池という青年である。
 一足早く陸軍に入っていた彼は、上司である軍医本部次長の石黒なる人物に手紙を書き、鴎外の陸軍行きを推薦してくれた。この同期とはいえ八歳年長の者から受けた恩を、鴎外は後に仇で返すことになる。
 嫉妬深かったのは、なにも鴎外だけではない。
 とくに谷口謙たる人物は頭一つ抜けた嫉妬深い男であったそうだ。仲間の身持ちの悪さを上官に告げ口し帰国させるような陰険さを持ち合わせていた。当然、鴎外もその陰険さのターゲットになった一人であった。
 鴎外はこの谷口の妨害により、医学研究を断念し、軍医の実務を学ぶはめに立ち至ったのである。プライドの高い鴎外としては、並みの軍医なら誰でも出来る軍医実務に不満たらたらであった。
 それでも、同期生で昇進競争を勝ち抜いたのは、鴎外と鴎外を引き抜いてくれた小池であった。彼らは二等軍医正、軍医学校教官とほぼ前後して出世の階段をのぼっていった。
 二人の友情に亀裂が生じたのは、明治26年だったといわれる。
 石黒(鴎外を陸軍に入れてくれた人)は、医務局長を辞することを決意し、小池を後任とするレールを敷いた。これは、かたや小池は将来の局長を約束されたことを意味し、かたや鴎外が陸軍の中枢ラインから外されたことをも意味する。
 繰り返すようだが、鴎外は実に嫉妬深い人物である。当然、この手の人事も屈辱ととる男である。ゆえにこの事件についての激情は、すぐさま『舞姫』という文学作品にて吐露されることになる。

 官長はもと心のままに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。独立の思想を懐きて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。

 鴎外周辺の人間模様を知る者ならば、すぐにこの文章中の「官長」は石黒であり、自在に動く「器械」は小池であることに気づく。
 軍部に身を置きながら文学活動もしている鴎外を気に食わない連中は多かったが、鴎外はこの手の文学上の復讐を何度もしている。
 はっきりいって、こうした公私混同はフェアではない。なぜといって、小池たち官僚は、立場上、人事の真相を明かすことができなかったからだ。仮に抗議すれば、登場人物が自分たちであることを認めてしまうことになる。ここに文学者の強みがあり、官僚の弱みが存在する。
 こうなると小池たちは、どうやったら鴎外の舌鋒を切り抜けて彼を苦しめることができるか、そこに知恵を絞るようになる。
 そこで彼らは閃く。
 官僚の世界には人事権がある。これを利用すればよいのだ。
 こうして鴎外は1899年の6月に、第十二師団軍医部長に命じられた。この東京の近衛師団から小倉の二桁番号への転勤は、どう贔屓目に見ても「左遷」と言ってよい。彼らの心情をまとめれば次のようになるだろう。
 ――嫌ならば陸軍を去るがよい。好きな文学活動に専念して、今後一切軍部の人事に不満を持たなければよい。
 しかし、そこは鴎外もバカではない。当時の愛読書だったクラウゼヴィッツの『戦争論』の中の一節“弱国の受動的反抗”を手本に取りながら、小池一派の勢力が衰える日を忍耐強く待ったのである。
 この辛抱強さを嫉妬と呼ばずになんと呼ぶのだろうか。
 その後も小池らからの妬みによる下策をたびたび切り抜けながら、鴎外もついに勝負に出た。
 明治陸軍の大立者山形有朋への接近である。常盤会という歌詠みの集まりに出席し、山形の機嫌を取り、彼の圧力を借りて小池一派らを制圧しようと画策したのだ。
 やがて鴎外は山形との縁もあって、総理大臣や陸軍大臣とも手を組むことに成功する。さすがの小池も不承不承鴎外を後任として認めざるを得なくなる。しかも鴎外は不遜にも小池の人事に関する要望をすべてはねつけたのである。まさに鴎外の嫉妬が実を結んだ瞬間であった。

 周知の如く、この後鴎外は挫折を経験し、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という孤独な遺書を残して最後の瞬間を迎えることになるのだが、ここには欲しかったものが得られなかった無念さと共に、この期に及んでもなお懲りない嫉妬心を抱いていたことが見受けられるのであるから、まこと嫉妬心とはげに恐ろしいものと言わざるを得ない。

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2014年2月22日土曜日

詩集『核家族』について

 Twitterからいらっしゃった方へ、まず一言言っておきます。
 昨晩は感情的になってしまい、すみませんでした。
 しかし、テコ入れのように時々怒っておかなければ(刺激を挿入しなければ)、持続して読者の目を引くことは困難なのです。
 私はある程度計算の上でキレたり、人を煽ったりする人間です。
 昨晩の怒りについて皆さんは、私が名前のある人に嫉妬してキレた、あるいは、日本人が名前のある人にしか関心がないことにキレた、と思われているかもしれませんが、本当のところは、こんな求心力のなさで、3月にネット通販で売ろうとしている詩集『核家族』が全て捌けるだろうか、という裏事情があっての怒りでした。
 こういった事情も、私のニコニコでの配信を見ていればわかることでしょうが、なかなかニコ動での活動と、Twitterでの活動と、ブログ(Goggle+)での活動が、繋がってくれません。
 私の部屋の片隅には、詩集『核家族』が約180部、不気味な負債のように積まれております。
 私はそれを観るといつもゾッとし、何度悪夢に唸らされたかわかりません。
 私も以前はよく売り込みにいったものです。海老名のサブカルチャーに関連するお店――例えば、ヴィレッチバンガードさんや、チャイハネさんや、あるいは、市の図書館など――さまざまな店に、置いてもらえないか、と交渉に行きました。
 しかし、ほとんどの店にとっては迷惑以外の何者でもなく、どの店も半月置いてくれればいい方でした。それは当たり前のことでしょう。誰も手にとってくれないものを長期間置いてくれるわけがありません。
 私は現実での限界を知った思いでした。繰り返しになりますが、日本人は名前のある人にしか関心を持とうとしないのです。
 こういった背景から、私はネット通販を利用することを決意しました。
 中編小説『人に迷惑をかけるな』がまがりなりにも400pvを達成したことを考えれば、無料の詩集180部もなんとか捌けるのではないか、という私の計算は決して自惚れではないと思うのです。
 しかし、最近のTwitterでの私に対する関心の薄さに、なんだか奇妙に自信がなくなってきました。
 私のフォロワーの中核は、「小説家になろう」というサイトに属している方々です。
 語弊を恐れずに言えば、彼らは「正統な文学」の歴史には属しておらず、いわばアニメ的リアリティーにどっぷり浸かっている世代です。
 反して、私の根本精神は実は保守的で、文学の歴史に連なりたい思いが強く、作品も純文学の色が濃い。
 要は、本当はお互いに分かり合えていない、ろくすっぽ作品も読み合っていないくせに、お義理一片でRTしてはし返す、という上っ面だけの関係なのです。
 それでも、彼らをマーケティングしないことには、私には道がない状況です。
 彼らをどう引き込むか、はたまた、180部の詩集をどう捌くか、――これを考えるだけで私はまた夜な夜なれいの悪夢に唸されることになるわけです。

 果たして、この先どうなるのでしょうか?

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2014年2月21日金曜日

かぐや姫の物語論

成功も失敗もしていないアニメ

 岡田斗司夫さんが、この『かぐや姫の物語』について、「5回寝た」と発言していたそうだが、僕だって事前に炬燵で寝ていなければそりゃ寝ていたに違いない。
 この映画の一番厄介な点は、自己完結型の作品である以上、成功も失敗もしていない、という点なのだ。
 だから、面白い・つまらないは軽々しく断定できないし、実際は面白いのか・つまらないのか最後までよくわからない映画なのだ。しかし、そんな曖昧さも、この作風の中では自己完結性の一部として回収されてしまうのだから、厄介な話である。
 よく批評をしていて、内心「負け惜しみかなぁ、今回は」と思ったり、いくら理屈で打ち勝っていても無意識の内に作品の器のデカさに敗北している時がままあるが、今作に限ってはそんなことはなく、批評が負けるほどの器のデカさは感じない。
 むしろ、つつきたい部分が山ほどある作品なのだ。

 「絶世の美女」に見えないかぐや姫

 まず一番違和感を感じた点が、主人公のかぐや姫が、「ふつうに美しい女の子」には見えても、「絶世の美女」には見えない、という点である。
 おそらく高畑勲は、「絶世の美女」を描くには、余りにも地味な感性をしているのである。
 例えば、普段はバタバタ廊下を走り回っていると思いきや、琴などの技芸をやらせればしおらしい横顔を見せる、というようなかぐや姫の持つギャップが、ギャップに見えない(色気に見えない)というのは、どういうことだろう?
 「絶世の美女」の定義は人それぞれあるだろうが、少なくとも、この作品においては[「月」のようにぞっとするほど色気があり、捉えどころのない女でなければならない。
 従って、高畑勲は、「月」というものへの扱いも間違っている。
 それこそ誰でも知っている事実だが、月は自ら光っているのではない。ゆえに、まばゆいばかりに輝く(明るい)という性格は、月ではなく、むしろ太陽なのである。
 「月」というものは本来、何かの「消息」であり、ふとした瞬間によぎる「他者」なのだ。この辺りのことは、松岡正剛さんの『ルナティックス』というエッセイを図書館で借りて読むといい。
 『かぐや姫の物語』を“誰も見たことのない映像美”というが、それは表面的な見方でしかなく、観てみるとわかるが、根幹にある感性は全面的に資料的であるし、どこかで見たような紋切り型の表現の連続でしかない。

 月世界の登場の唐突さ

 また、月の世界(天人の世界)の登場はあきらかに唐突である。
 その証拠は、月の世界の存在をかぐや姫が一から十まで「口で説明している」点を挙げるだけで十分だろう。本来、月の世界の存在は、それまでの物語が終局へと集約していくダイナミズムを生まなければいけない役割のはずなのに、その登場が余りに唐突なので、観客は「理解」はできても、「納得」はできないレベルに留まっている。
 高畑勲は、
「かぐや姫が地球に来た理由は作中で語った」
 と言っているが、観客を納得させるレベルではないどころか、映画として明らかに駆け足すぎるので、むしろ蛇足的な設定にまで貶めてしまっている。
 「月」を象徴的に使いたいのならば全編に渡って象徴的に使うべきで、そこは『風立ちぬ』が全編に渡って「風」を象徴的に織り交ぜていたのとは対照的だと言えるだろう。

 日本最古の物語”というコピーの欺瞞

 ここからは蛇足になるが、かなり気になったことなので書いておくが、多くの人が『竹取物語』を語るときに、「誰もが知っている」という前置きを無意識に使いすぎであると強く感じる。
 僕などは『竹取物語』のあらすじなどほとんど知らなかったほどで、また、知人に聞いてもやはりうろ覚えの人が大半であり、一般的に見ても「誰もが知っている」というコピーは欺瞞であると感じる。
 それに、『源氏物語』だろうが、『平家物語』だろうが、『竹取物語』だろうが、現代人から見ればどれも「古い物語」として一括されるのだから、そこにことさらに差異などない。
 ゆえに制作者たちがことさらに『竹取物語』を選んだのは、ただ単に「日本最古の物語を現代に蘇らせた」という箔が欲しかっただけとしか思えない。

 セルフ・パロディー

 蛇足ついでに書いておくが、これまでの高畑勲作品のセルフ・パロディーと思われるシーンも、ちらほら見られた。もっとも代表的なのは、『アルプスの少女ハイジ』の、クララが立ったシーンと、かぐや姫が立ったシーンであろう。
 あるいは、かぐや姫が「自然」や「望郷の念」に駆られるのは、『おもいでぽろぽろ』にも通底していたテーマである。非常に年寄り臭いとは思うが、高畑勲としてはどうしても引き寄せられるテーマなのだろうと思う。

 まとめ

 Twitterなどで、「号泣した」などと抜かしている輩は、どういうセンスをしているのか、まったく理解できない。
 かぐや姫の造型は「現代の子供」の本質とは程遠いし、物語自体も若者のフックに引っかかるような箇所は極端に少ないからだ。
 そう考えていくと、この作品はどの年齢層をターゲットにしていたのか、はなはだ疑問である。
 この『かぐや姫の物語』は、宣伝で使われているような「罪と罰」なんて大げさな話ではなく、実際はシンプルな「親と子の物語」であるから、子を持つ親御さん、あるいは、子が離れてしまった親御さんが暗涙にむせぶのかもしれない。
 実際、僕が映画館に行ったときは、中高年ばかりと混じって観たのである。
 なにはともあれ、僕としては何一つ感化される点がなかった。
 それだけで相当の損を感じている。
 今後、映画代が1700円以下にならない限り、僕はジブリ映画は観ないつもりである。

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